いったりきたりの話

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祖父が死んだこと

祖父が死んだ

享年92であった

 

私と祖父の関係は微妙で、特に晩年はいわゆる家族的な仲の良さは失われていた。

ただ、それは祖父を人間的に軽蔑していたということではない。

年齢が3倍ほども離れていると、常識の前提が異なりすぎていて、

生活実感の隅々で衝突することが多々あり、それで険悪になっていたのだと思う。

 

以下に思い出を記す。

 

祖父と同居し始めたのは私が10歳の時で、その時祖父は稲作をしていた。

当時私が祖父の耕作を手伝った中で印象的だったのは、

最初の田植えをした後に、稲の列を修正する作業をした時のことだ。

 

その時は田植えをした次の日に、格子状に植えた稲の列の位置の修正をした。

問題なのはその時の天気が土砂降りだったことだ。

泥にまみれ気温が一桁の中雨に打たれ、ひたすら稲を植え直す作業は、

私に将来農民にはなるまいという決意をさせるには十分だったが、

一方で合理性を超えた仕事へのこだわりの凄みを感じさせた。

祖父はそういう苦行を「良いもの」を作るための道程ととらえていたと思う。

私は全くそれに共感しないが、その態度に尊敬を抱いてもいた。

なぜならある種の職人技の美しさはそういう態度から生じるのだということを、

感じたからだ。

ただそれはひたすら苦痛だった。実際に植え直した米の味と,それをしない米の

味の差は、私には分からなかった。

 

こういう軋轢は宗教的な世界観と科学的な世界観の断絶を感じさせた。

 

それに関連して言うと、祖父が語った松根油の話はよく覚えている。

 

祖父は1931年生まれだ。

この年齢は特別な意味を持つ。

1930年生まれまではアジア太平洋戦争に出征した可能性があるからだ。

 

祖父の思春期は軍国主義に彩られていた。

当時は国民学校に軍の将校が来て、教育に影響を及ぼしていたそうだ。

1944年当時時の日本は支配圏から油田を失い、飛行機を飛ばすための燃料が不足していた。

その中で代替燃料として考案されたのが松根油である。

油分が豊富な赤松に注目し、伐採してしばらくたった赤松の根を乾留し、

油を作り出す。これを松根油という。松根油は戦闘機の燃料として

利用される計画だった。

 

祖父は1944年以降、終戦まで、学校の指導で山に入り赤松の根を掘り返し、

松根油を製造していたそうだ。

 

 

松根油は戦後の米軍の調査で、何ら日本の戦争遂行に何ら寄与しなかったといわれている。

 

これを語るときの祖父の語り口というのは、いかにも楽しそうなものだった。

私はその語り口から、徒労の面白さという問題を学んだ。

 

年の功というのは本人が良い教訓として語るものから得られるだけではない。

愚行から学ぶこともできる。

 

家族であり、手近な共感の範囲外にある存在として祖父のことをとらえていた。