いったりきたりの話

ぬるっとした文章と写真を上げます 

いつ言葉に意味が生じるのか、「スペシャル」が完結したこと

 いつ言葉に意味が生じるのか、という疑問に取りつかれたことがある。それは思春期の終わりごろのことだった。私は多動的で、話好きな方だと今では思うのだが、当時は全く他者としゃべることが得意ではなかった。話好きなのにしゃべれないという状況が当時の私の煩悶を加速させた。解決策として言語によらないコミュニケーションは可能か?ということを考え、写真という趣味に没入していったのだが、その成果は芳しくなかった。(写真というメディアのあいまいさについては今更論じるまでもない。)

 

 そういう悩みは思春期が終わるにつれ、また例えばコンピュータプログラミングを(下手なりに)勉強するにつれ、様々な解法を見出すことによって癒すことができた。全く赤の他人と話すことは怖くないし、定まった意味を媒介にすれば言葉は通じるのだ、ということを、経験則的にわかるようになった。しかし、そういう悩みを根本的に癒したのは、親しい友人との会話を経験したということに尽きるのかもしれない、と思う。

 

 言葉の意味とは、会話の中にしか存在しないのではないか、そう思わせるほど、面と向かい合った友人と様々な事柄についてそぞろ語りすることの相手と通ずる感じは言い表せない。酒を飲んで明け方まで延々議論することは、合理性から言えば愚かなのに、私をひきつけてやまない。(私たちを、だと信じている。)

 

 そのような会話の楽しさをカプセルに封じた漫画が先ほど完結した。その漫画は平方イコルスンの「スペシャル」だ。

 

 「スペシャル」の印象的な場面にトイレを「海」と表現する回がある。なんのこっちゃと思うだろうが、その比喩の持つ親しさは私の中で特別なものだ。

 

 しかし、熱に浮かされたように会話をした後で思うことがある。やはり私たちは生物的な個体として、相手を完全に理解することはできないし、ましてやモノそのものを理解することは決して出来のないのだ、ということだ。「スペシャル」を読み終えた後でそういう、かつて言葉の意味に悩んだときのむなしさを覚えた。それはむなしいが、現実を確かにとらえたような茫漠としたむなしさだ。

 

 しかし、言葉を紡がねばならない。それはそうでしょう?会話の中にしか意味が生じないのだから。