春先の雪
この時期の雪は堪える。降る前日は20℃を超えていたのに、急に気温が下がり雪が積もったりすると、ビックリしてしまう。
バスに乗って移動していると、中学生が大量に乗り込んできた。何だろうかと思うと、確か今日は高校受験なので、それでだろう。なぜか受験や入学の時期に雪が降った思い出が多い。大学受験の日には大雪だったし、小学校の入学式も大雪だった。
春の慌ただしい時期と大雪の記憶が重なっている。
雪が降っていると遠景が霞んで、遠くが遠くらしく写る。そんな中住宅街を歩いていると、今歩いている道の先が見えなくなっていて、独特の風景が見られる。いつも感じる住宅街の無機質さが強調されていて、さみしい気分になった。
以下その風景
冬の夕暮れ
冬の昼間は、晴れていても日差しが寒々しくて、あまり好きではない。夕暮れの時間はしみじみ寂しくて好きだ。
町にある物
とりたてて騒ぐほどではないが、気になる物ども。
昔住んでいた所
昔住んでいた所に行った。記憶の中にある街並みと、実際に見た街並みを比べると、全体的に小さく見えた。住んでいた頃と比べると、自分の体が大きくなっているので、そんなもんかな、と思ったが、ちょっと待てよ、とも思った。目線は40cmくらい高くなっているが、今40cm屈んでも、周りの空間が広くなった感じはしない。という事は、当時も今も見ている風景はそんなに変わらないはずだ。見ている風景から、空間の広さを認識する際に、身体の大きさが関係しているのだろうか。腕や脚の長さみたいなものを使って、広さを測っているのだとしたら、狭くなった事もなんとなく腑に落ちるような気がする。エジプトのファラオの指先から肘までを1キュービットとした、という話を思い出した。
ぶらぶら歩きながら建物や道路を見ていくと、記憶の中にあるものとの対応が取れてくる。ものとしての対応は取れるのだが、感覚としては異なる。見た目が同じものを使って作ったミニチュアのような感じだ。生活していないせいもあるかもしれない。当時の生活で使っていたものや、象徴的に覚えていたものは、ほとんど無くなっていた。こっそりとした所は記憶と同じで、うすらぼんやりした印象だけが残る。ただ、当時と同じ匂いがしていたのには驚いた。身体が大きくなっても同じ匂いを同じ匂いとして嗅げる、というのはなかなか不思議だ。空間の広さはかなり変わってしまうのに。