冬の農村
冬が近くなると、風景が激変する。木々の枝が目立つようになって、残った緑も心なしか暗い色になる。人間の生活も寒さと日の短さに影響を受け始め、変化していく。
以下実家周辺の風景
大根を収穫した
葉を切り落とし、
チェックしたあと、
輪切りにして、
漬ける。
寒くなると、
猫が家に寄り付くようになる。
他の家の大根
収穫された菜っ葉
トマトももう限界
庭の白菜も元気
曇りの日が多くなる
曇りの日が多くなる
葉が落ちて露わになったハチの巣
水が止められて出てきた魚
いつの間にかラ・ムーになっていた
冬になると普請が多くなるような気がする
工事も
それでも今年は暖かくて助かる。
イメージ連続体
SDカードとハードディスクにため込んだ写真
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唐突な写真
機材のこと
最近デジタルカメラを買った。といっても新製品を新品で買ったというわけではなく、型落ちの新品同様品を中古で買ったのだが。デジタルカメラの性能が安定してきて、中古で買おう、という気にさせる様になったのは感慨深いことだと思う。少し古いデジカメでも十分な説得力を持っているのだ。レンズはともかく、デジカメの本体は本質的にコンピュータであるから、その進歩に伴って計算力が莫大になり、数年前の製品と最新機種を並べると、漠然とだが一千万と十億を比べている様な感じがする。
GX200 / デジタルカメラ生産終了製品情報 | RICOH IMAGING から引用
デジタルカメラを買うのは二回目で、前回買ったのは確か2008年の初めくらいだったと思う。リコーのGX200だった。店で触ってみた他のカメラに比べて、暗いところで撮った写真にノイズが結構出て、滑らかさがないのが欠点だったが、とにかくボタンや外観のまとめ方がうまく、使いやすかったのを覚えている。リコーは古いカメラメーカーなので、デジカメの道具としての側面をよくわかっていたのだろう。母方の爺さんに見せた時に、「初めて買ったカメラがリコーのやつだった。」と言っていたのが妙に印象に残っている。数年間雑に使ったら、電源をonにしても鏡筒が伸びなくなってしまい、そのままにしている。たしか実家の本棚にあったはずだ。GX200が壊れてから数年間、デジカメに意識が行かなかったのは、フィルムを使いやすい環境にあったせいもある。フィルムカメラはしこたま使った。古いカメラも幾つか使ってみたが、意外な発見があって面白かった。特に面白かったのは、フォールディングカメラ、といわれる種類のカメラだ。
フォールディングカメラの一種
File:Adox Golf 63 Folding Camera (3289854390).jpg - Wikimedia Commons から引用
フォールディングカメラは名前のとおり折りたたみができるカメラで、フィルムカメラにおいて相反する重量とフィルムの大きさを両立するという離れ業を成し遂げている。Mamiya6なんかが代表的な機種だが、私が使っていたのはPetriRFというやつだった。結局、川のすぐ横で三脚につけて撮影していた時に倒してしまい、岩の上を転がってボコボコになった上で水に浸かるという、これ以上ない壊れ方をして使えなくなってしまった。
ヤシカ ルーキー
Yashica Rookie - Camerapedia - Wikia から引用
2眼レフと呼ばれる種類のカメラも面白かった。この種類は、首からカメラをぶら下げて、腰のあたりでシャッターを切る。普通のカメラはぶら下がっているのを顔のあたりまで持ち上げて撮影するから、シャッターを切る時の高さが50センチほど異なる。だから2眼レフを使って撮影すると、低いところから見た変に圧迫感がある写真になって味わい深かった。人を撮影するのも楽だった。普通のカメラだと、被写体の目線と同じ高さにカメラを持ってくるので、体を見下ろす形になってしまう。二眼レフは腰のあたりでシャッターを切るから、顔までの角度と足先までの角度が均等になって、バランスが良いのだ。使っていたのはヤシカのルーキーで、これはひいじいさんの遺品だった。
もう一つだけカメラの種類をあげるとなるとレンジファインダーカメラだろう。一番最後に手を出した種類だが、これも他のカメラにない特徴を備えている。まずピント合わせの方法が回りくどくて、カメラに三角測量を行う機構が備わっている。また、カメラを構えると左上のところに覗き穴がついていて、それを覗き込んで構図を決める。この覗き穴を使えるところがミソで、被写体を発見してから写真を撮るまでの時間が、他の種類に比べて圧倒的に短かった。カメラを構えずに物を見ていて、いい被写体があったら、眼と被写体の間にすっと穴を滑り込ませれば、後は撮るだけだ。まさしく道具としてのカメラの極北で、私の手と眼の延長として振舞ってくれる。撮影という行為の背景に極力隠れるように、発達してきた種類のカメラなのだろう。これを首からぶら下げていると、辻斬りにでもなった気分で写真が撮れて面白い。もしこれからフィルムカメラを使ってみたいという人がいるなら、この種類を使うと面白いと思う。具体的にはCanon7とそのレンズ群が性能と値段のバランス、中古市場での数が豊富なことから、買いやすいだろう。
Canon 7
上で挙げた三つの種類は、スペックや機能による分類ではなくて、使い方による分類である。原始的で野蛮なところもあるが、単純な道具なりの使い方があって、私の体によくなじんだ。フォールディングカメラは壊れてしまったけれど、二眼レフとレンジファインダーはまだ現役で使っている。フィルムが生産されなくなると、これらが使えなくなってしまうので、自分の手がもがれ、眼がふさがれる様な気がして、少し寂しい。だからフィルムの生産が続くか、デジタルカメラの身体性がもっと上がればいいのに、と最近考えていた。自作の道具でデジタルカメラの身体性を向上させる試みを最近しているが、それはまたの機会に書くとしよう。
道具は色々使ってみるのが楽しいと思う。写真という趣味は、そういう意味でも恵まれている。
細かいところ
普段、ふらふらと散歩しながら風景を見たり、それを写真に撮ったりしている。野原や林や河原なんかにもよく行くし、普通の住宅街もよく歩く。歩いている途中、側溝や草むら、川の中なんかを覗き込むと、意外なものがあって面白い。
たにしの殻がゴロゴロ
草にアブラムシがびっしり
カモ
ハチの頭
何かの毛
標識
面白い形の室外機
駐車場の看板
岩陰の魚
かっこいい石
水路のハチの巣
柿の実
長靴
てんとう虫
写真を見返すと、細かさにクラクラしてしまう。
感覚のほころび
昨日の夜中24:00頃、自転車に乗っていた。文化の日に自転車で遠出した時にパンクしてしまい、修理キットを持っていなかったのでやむなく放置してきたのを、取りに行ったのだ。夜中に自転車に乗るのはあまり好きではないし、実際に危ない。
これは私が怖がりだからかもしれないが、暗がりの中だと、小さなカーブミラーを、俯いている人に幻視してしまう。民家の塀の端によくあるので、視界にミラーが入った一瞬、「人!」と思って、びっくりしてしまう。これが昨日の夜だけで4,5回あった。
夜の道というのは、昼に比べるととても単調だ。周期的に私を照らす街灯の光が、見える限り延々と続くか、灯りが無い暗闇で、黒々とした山並みの影がうっすら浮んでいる中に、ライトで照らされた範囲がのっぺりと見えるだけだ。その光景の中で人を幻視すると、とてもびっくりする。昼間に本当の人間がそこにいてもなんとも思わないのに、これはなぜだろうか。
何回か幻視していると、人に見えるが、あれは小さなカーブミラーだ、という認識ができるようになった。視界の端を通り過ぎていく、俯いた人に見える小さなカーブミラー、じっと俯いた人らしきもの。奇妙な感覚だ。昼間の自分を含めて、あらゆる人と共有できない、その場限りの感覚。
以下、夜に見た光景たち
夜中は大きな道路で工事をしている
行きは電車に乗った
駅を降りたところ
山のある生活
登山がブームになることがある。人々は何を求めて山に登るのだろうか?おそらく、非日常的な自然の景色に圧倒されたり、体を動かすことを欲していたりするからだろう。しかし、私が育った山国で山に登るのは、生活のために必要な人か遊びに行く子供ぐらいで、多くの人はそれをただ眺めるだけだった。
山国では、地域によって住民の目に付きやすい山というのが決まっていて、そういう山は特別の愛着が持たれるものである。長野県を例にとると、松本市では常念岳や乗鞍岳、堀金村では常念岳、穂高町では有明山、という具合である。そして、今私が住んでいる上田市では、太郎山(たろやま)が象徴的存在として扱われている。
朝の太郎山
これらの山は生活の背景として、市街地や、田園田畑の光景に入り込んでいる。そして季節によって様々な姿を見せ、それが日常会話の語り草となるのである。そのことが、山国におけるあらゆることを支え、その光景を統制のとれたものにするのだ。