いったりきたりの話

ぬるっとした文章と写真を上げます 

panpanya 「狢」について②

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 気が付けばpanpanyaの4冊目の単行本、「動物たち」が刊行されてから1年がすぎ、次の単行本「二匹目の金魚」が来年の1月に出るという。「動物たち」については、収録されている「狢」についてだいぶ前に書いたが、書き足りない気がするので、もう一度書きます。(「動物たち」1周年記念です、、、)

 

 

 

 

 

・感情(恩返しを受け入れること)


 意味がある、という事はどこからやってくるのだろうか。基本的に自分の目の前に開けている風景というのは、何の意味も持っていない。私がそう認識した瞬間に、ゆるがない性質として、何らかの役割や機能、意味を持ち始める、というような事をたまに考える。 


 たとえば写真を撮った時に、画像となった被写体が妙に味気なく、のっぺりとした感じに映るのは、肉眼で見たときに感じられた意味の確かさが、写真には保存されないからなのだと思う。やはり意味というのは、物事の姿かたちに備わっているのではなくて、私たちの頭の中にあるのだ、という事を実感する。

 
 当然、意味の地平から漏れ出てしまう物事というのはあるだろう。panpanyaのまんがを読むと、そういう物事の存在を示されたような気分になるのだ。その漏れ出てしまう物事の中には、私たちの感情も含まれる。未だ名づけられたことのない感情は、おそらく四六時中生まれているのだろうが、それを認識しようとしたときに、意味によって切り分けられ、今までの感情に丸め込まれる。しかしその丸め込みがおおざっぱだと、違和感が生じるのではないか。自分の感情でさえ、考え込まないと存在すら認識できないということがあるのだ。

 
 無自覚、未確認の感情というのは違和感として感じられるのではないだろうか。ディジットに切り出された、言葉としての感情と、頭の中の前感情の衝突。それを的確にとらえるためには、ふと考え込まなければならないことがあるのだ。自分の中の自然を観察するような、少し不思議なプロセスだ。そしてついにそれを捉え、言葉になったときに、発見の鋭さにつらぬかれるのだ。

 

 

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・狢とのコミュニケーション。言葉を伴わない感情の発露


 動物というのは不思議なもので、その行動が適応的に説明できる、無慈悲な側面と、そこから漏れ出てしまうような、何か気分屋な、非効率な側面をもっている。また、人間の生活に現れる動物は、人間社会との関わりと、環境中で占める地位という二つの側面も持っている。思うに動物とは、定義したとたんにその外側にある性質も明らかになってくるような、奇妙な存在だ。その奇妙さから生じる想像力というのが、「恩返し」なのではないだろうか。動物は人間の親切など理解するはずがないのに、そういう想定を裏切るのではないか、というゆとりが恩返しを生む。恩返しのコミュニケーションに関しても、二面的な複雑さがある。贈られた物や、なされた事を通して、何となく相手の動物の「意図」のようなものが伝わってくるというような、考えがあるのかないのか分らないような、微妙なコミュニケーション。受け取り方によっては、愛らしくもあり、迷惑でもある。panpanyaはこの複雑さを独特の言語感覚で捉えている。


 「恩返しがなべて喜ばしいものであるとは限らない。  

  しかし喜ばしくない恩返しがみな嬉しくない

  というわけでもないのである。」


喜ばしいと嬉しいという語は、意味が隣接していて、日常生活ではその微妙な違いを使い分ける事はないが、主人公と狢の物語を通して、確かにその違い、対応する頭の中の感慨の違いを実感できるのである。このような混ざり合って分離していないような事を見事に書きだす、描きだすのがpanpanyaの特徴なのではないか、と思う。

 

 

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 たとえば双眼鏡を覗くと、視力という基本的な能力が自身の認識を基底している、という事を知るように、たとえば写真をとることで、認知や記憶がいい感じに処理されている、という事を知るように、panpanyaの漫画を読むと、私とは異なる(あるいはより詳細な)世界の分節化の方法がある、という事を知ることができる。これはひたすら自由なことだな、と思うのだ。