景色をすりぬけて②
いつも見ている風景でも、ふいにその同一性が破れて、新しい感慨が生まれる。
景色をすりぬけて
ぞくぞくする感覚があるとすれば、”風景”をすりぬけて何かが現れ出た時に感じられる。
住宅街の断面
切り立った崖のように、住宅街の込み入った構造が露出している。
故郷を失った人々へ
私は写真が好きです。それは、写真を撮る、という事を通じて、撮られた風景との繋がりを感じられる瞬間があるからです。これはとても不思議で、尊い感情だと思っています。なぜなら、私とその外界はとても離れているのに、まったく違う物なのに、その溝を乗り越えてそう感じられるからです。撮る、という行為を通じて、私が死ぬまで私にとられるであろう風景が好きだ、と感じられる瞬間があるのです。
特に感じるのは、故郷の風景の大切さです。私には、まったく些細な風景の変化さえ、故郷においては過去との関係の中で、意味のあるものと感じられます。そこで生きてきたという感覚が風景を裏打ちし、特に親しく感じられるのです。
この国にはそれを失った人々がいます。それは言うまでもなく、東日本大震災で故郷を押し流された人々であり、特にそれに続く原子力災害で生活の場を失った人々です。
故郷を失う、という事を想像することはできるでしょうか。恐らくそれは心の中にある風景を一変させる、壊滅的な出来事であったでしょう。とても悲しい事でしょう。朝起きたときにふと窓から見える、赤く燃える山もなくなってしまえば、日が沈んだ後の、包み込むような金属質の風景もなくなってしまうのでしょう。夜の闇の、まったく見えない風景さえも失われてしまうのでしょう。あらゆる過去との連帯は絶たれ、風景が無に帰する感覚があるのかもしれません。私はその悲しみと怒りを想像しきることはできません。
私は、死んでしまった人々に、また失われてしまった風景に、そして何よりも私達の選択のせいで、将来にわたって危うくなってしまった、あらゆる人々の故郷の風景に哀悼の意を表します。本当に悲しい事だと思います。
panpanya 「狢」
先日、岡潔という人が書いた文章をまとめた本を読んでいると、こうあった。
「『価値判断』が古人と明治以降の私たちとで180度違うのである。
一,二例をあげると、古人のものは、
『四季それぞれよい』、
『時雨のよさがよくわかる』である。
これに対応する私たちのものは、
『夏は愉快だが、冬は陰惨である』
『青い空は美しい』である。
特性を一、二あげると、私たちの評価法は、
他を悪いとしなければ一つを良いとできない。
(中略)
これに対し古人の価値判断はみなそれぞれよい。
種類が多いほど、どれもみなますますよい。
聞けば聞くほど、だんだん時雨のよさがわかってきて、
深さに限りがない。
こういったふうである。」
(「数学する人生」p143-144 改行は適に入れました。)
この一文を読んだとき、panpanyaという人のかいた「狢」という漫画の、
最後のコマに書かれている地の文を思い出した。それはつぎのようなものである。
「恩返しがなべて喜ばしいものであるとは限らない。
しかし喜ばしくない恩返しがみな嬉しくないというわけでもないのである。」
今文章だけ抜き出してしまうと、
なんだかややこしいな、という事が先に来る。
しかし、私は漫画を通して読んで、最後にこの文が書かれていたとき、
すんなりとこの感覚を受け取ることができた。
この文で表現されている感覚が、岡潔の言っている「古人の価値判断」に
近いのかな、と考えている。
もう少し狢での一文を詳しく考えてみよう。
「喜ばしい」という言葉には、「それは喜ばしいことですね」というように、
社会的な好ましさが含まれている。それに対し「嬉しい」は事物に触れたときに
自然と心の中に浮かぶ好ましい感情を表した言葉ではないか、と思う。
これを踏まえたうえで改めて先の狢の文を読むと、「古人の価値判断」
に近いと分かっていただけませんか?
こう感じられるセリフや文はpanpanyaの漫画で度々登場するような気がして、
出会うたびに、ああいいな、ほっとするな、と思う。
(たとえば「池があらわれた話」、「ついてない日の過ごし方」等)
また、panpanyaの描く絵も、この感覚と深くつながっているような気がする。
そこにみられる絵柄の多様さ -細かい書き込みと気の抜けたような線の混在ー、
描かれる対象の豊かさ -現実の詳細な観察による絵と、突拍子もない空想によるものとの混在ー を見ると、まさしくどれもこれもよい、という感じがしてくる。
だからpanpanyaの漫画を読むと、私もしみじみと嬉しくなってしまうのだと思った。
panpanya 「狢」
初出 「楽園」web増刊 2015/8/13
収録単行本 「動物たち」 2016/11/31