panpanya 「狢」
先日、岡潔という人が書いた文章をまとめた本を読んでいると、こうあった。
「『価値判断』が古人と明治以降の私たちとで180度違うのである。
一,二例をあげると、古人のものは、
『四季それぞれよい』、
『時雨のよさがよくわかる』である。
これに対応する私たちのものは、
『夏は愉快だが、冬は陰惨である』
『青い空は美しい』である。
特性を一、二あげると、私たちの評価法は、
他を悪いとしなければ一つを良いとできない。
(中略)
これに対し古人の価値判断はみなそれぞれよい。
種類が多いほど、どれもみなますますよい。
聞けば聞くほど、だんだん時雨のよさがわかってきて、
深さに限りがない。
こういったふうである。」
(「数学する人生」p143-144 改行は適に入れました。)
この一文を読んだとき、panpanyaという人のかいた「狢」という漫画の、
最後のコマに書かれている地の文を思い出した。それはつぎのようなものである。
「恩返しがなべて喜ばしいものであるとは限らない。
しかし喜ばしくない恩返しがみな嬉しくないというわけでもないのである。」
今文章だけ抜き出してしまうと、
なんだかややこしいな、という事が先に来る。
しかし、私は漫画を通して読んで、最後にこの文が書かれていたとき、
すんなりとこの感覚を受け取ることができた。
この文で表現されている感覚が、岡潔の言っている「古人の価値判断」に
近いのかな、と考えている。
もう少し狢での一文を詳しく考えてみよう。
「喜ばしい」という言葉には、「それは喜ばしいことですね」というように、
社会的な好ましさが含まれている。それに対し「嬉しい」は事物に触れたときに
自然と心の中に浮かぶ好ましい感情を表した言葉ではないか、と思う。
これを踏まえたうえで改めて先の狢の文を読むと、「古人の価値判断」
に近いと分かっていただけませんか?
こう感じられるセリフや文はpanpanyaの漫画で度々登場するような気がして、
出会うたびに、ああいいな、ほっとするな、と思う。
(たとえば「池があらわれた話」、「ついてない日の過ごし方」等)
また、panpanyaの描く絵も、この感覚と深くつながっているような気がする。
そこにみられる絵柄の多様さ -細かい書き込みと気の抜けたような線の混在ー、
描かれる対象の豊かさ -現実の詳細な観察による絵と、突拍子もない空想によるものとの混在ー を見ると、まさしくどれもこれもよい、という感じがしてくる。
だからpanpanyaの漫画を読むと、私もしみじみと嬉しくなってしまうのだと思った。
panpanya 「狢」
初出 「楽園」web増刊 2015/8/13
収録単行本 「動物たち」 2016/11/31
神奈川県の旅①
神奈川県に行った。考えてみると神奈川県には初めて旅行をした。
普段見ないコンビニ
歩いても歩いても住宅街だった。
山が見える
暴力と知恵
ぶらぶらしていると、印象的な風景に出合うことがある。畑や果樹園の中を歩いていると、黒い布がずらずらと掲げられていることがある。気になって調べてみると、どうやら烏除けのようだ。烏が掲げられた黒い布を仲間の死骸と勘違いするため、作物に近づかなくなるという。ただ、烏は頭がよくただの布では限界があるため、ホームセンターなどに行くとよりリアルな烏の模型が売られている。これを掲げていると、ヒトの私にも本物の死骸かどうか、一度見ただけでは見分けがつかない。日の間隔をとって観察を続けると、変化があるかどうかで見分けることができる。
水がないということはない
降雨量の少ない季節に、地形的な要因で水が染み込みやすいところを流れる川は、地表を流れる水がなくなり、河道が全てむき出しになる。
夏になると、近所の川がその状態になるので、どうかなーと思って見に行ったが、全然そんなことはなかった。
暑くてかなわない
だいたいこんな感じです。